KELES Seminar 38

このページは、関西英語教育学会第38回KELESセミナー@近畿大学・東大阪キャンパスの講演「はじめの一歩を踏み出すために:英語教育研究の入口」に関する資料の保管・公開場所です。

(10月1日午前9時ごろ少々の修正を加えたファイルに差し替えました)

投影資料(PDF)ダウンロード

話をする

ちょっと前後しますが、7月2日に神戸学院大学にお招きいただき、FD講演会という形で以下のタイトルでお話しさせていただきました:

目標言語を使った外国語の授業: 効果的なインプット・インタラクション・フィードバック

小規模なイベントでしたが、ディスカッションの時間も含めて2時間半たっぷりお話しさせていただきました。自分の研究に近い話ではありますが、英語教師としての自分を見つめるよい機会にもなりました。

今回の講演は、これまでに機会をいただいたいくつかの講演でお話しした内容を取りまとめたものでした。スライドを投影しながらそれぞれについて詳しく説明をしたので、スライドのみを公開してもあまり役に立たないような気もしますが、ファイル送付の依頼のあった先生にメールで送るにはちょっとサイズが大きいこともあり、ウェブで公開してしまいます。

PDFファイルのダウンロードはこちらから。

ことば足らずの内容ですので、質問などあれば遠慮なくご連絡ください。

本を書く

今回は自著の宣伝です。7月21日に研究社から『はじめての英語教育研究:押さえておきたいコツとポイント』という本が出ます。どんな内容かは書名がよく表していると思いますが、英語教育の世界でこれから研究を始めようという方が最初に手にする研究法の入門書という位置づけで執筆しました。

この業界には、『外国語教育研究ハンドブック:研究手法のより良い理解のために』(松柏社)という素晴らしい本があり、僕も大学院生など多くの方にお薦めしていますが、僕たちの書いた『はじめての』は、この『ハンドブック』よりさらに研究の入口に近い部分に重点を置いています。「なぜ研究をするのか」、「どのように研究テーマを決めるのか」、「何のために先行研究を読むのか」といった解説を通して、『はじめての』が、これからはじめて研究をしようとする方と『ハンドブック』との橋渡しになればと願っています。

2005年から2013年まで、中部地区英語教育学会で「英語教育研究法セミナー」を主催しました(セミナーは共著者の亘理陽一さんを中心に現在も続いています)。また、同じ学会で「英語教育研究法の過去・現在・未来」というプロジェクトも企画しました。本書は、こういったこれまでの取り組みの集大成という意味合いを持っています。

詳しい内容については書店等でぜひ手にとってご覧いただければと思いますが、「はじめに」の最後の段落だけここに紹介します。

本書の中でも繰り返し述べていますが、研究は他の研究との関係なしでは存在しえません。同様に、研究者も他の研究者とのネットワークがあってはじめて活躍できるのだと私たちは考えています。本書を手に取ったみなさんが、研究を通じて様々な形でつながり、英語教育研究全体を一歩前に進めてくれることを願っています。

PPPについて

CELES静岡支部研究会でお話ししたことにも関連しますが、PPPについて僕が考えていることを整理します。コメントや反論歓迎です。

PPPとは

PPPとは外国語教育、特に文法指導のひとつの手法で、Presentation, Practice, Production の3つのステップで構成されます(頭文字をとってPPP)。多少の修正を加えたバージョンもいくつか提案されていますが、基本的な流れは次のとおりです。

1. Presentation

教えるべき文法規則の提示。提示方法もいろいろありますが、学習者が当該文法規則の明示的知識を身につけることを目指します。一番簡単な例は文法規則自体を直接説明することです。

2. Practice

教えたばかりの文法規則を使った練習をします。ドリルとか(文法)エクササイズが Practice の例です。

3. Production

練習した文法規則を実際に使う。インタビュー的なコミュニケーション活動やライティング的な活動など様々な可能性がありますが、1-2で習った文法規則を使うことが主目的であり、学習者も教師もそう認識しているのがポイントです。

冷たいのに過保護

PPP的指導の問題点はこれまであちこちて指摘されていますが、僕が特に重要だと考えているのは次の2点です。ただしこれはPPPそのものの問題点と言えるのか、それともPPPを実践する際の問題点になるのかは議論が分かれるかもしれません。

1. PPPは冷たい

PPP型のシラバスでは、1つの文法規則は通常1度しか扱いません。教科書で「新出」文法項目として扱われるように、初出時にのみ明示的に提示され(Presentation)、そのタイミングで Practice と Production が行われます。文法規則が活動の中で正しく使えたかどうかを評価してPPP型指導は一段落です。ちょっと極端な言い方をすると、「1回教えたらそれでおしまい」です。実際にはそんな冷たい先生はいないと思いますが(笑)、一度習った文法規則を後ほど振り返り、再度 Pratice や Production の機会を用意するというのはPPPの考え方には標準では備わっていません。

文法規則は、一度教わったり使ってみたりしてすぐに身につくものでないということは多くの方の共通認識だと思います。そのため、教科書をある程度進めたところでそれまでの既習文法規則の復習的な活動を組み込む教員も多いと思います。ただその場合でも Practice の段階を越えて Production 的な活動まで行うことはあまりないのではというのが僕の印象です(違っていたらご指摘ください)。そうすると1度習った文法規則を実際に使う練習は1回しか行われないということになります。

2. PPPは過保護

PPPでは、Production の段階で習った文法規則を実際に使う機会を提供して一連の活動を締めくくりますが、これでは不十分だと僕は考えます。学習者が教室の外で実際に英語を使う場面を想像してみましょう。留学生と世間話をする、旅行先で道をたずねる、取引先とメールのやりとりをするなど様々なシチュエーションが思い浮かびますが、その場で学習者がしなければならないのは、自分が何を言うか(書くか)を考え、それを英語で表現することです。当たり前のことですが、「こういう時はこういう文法規則を使うんだよ」と指示してくれ、場合によってはモデル文を示してくれる先生はその場にいません。どの表現を使うのか、どの文法規則を使うのが適切なのかを判断するのは学習者自身です。

純粋なPPP型指導では、学習者がどの文法規則を使うかをみずから選択するという機会が提供されません。もちろん、Production の活動で行ったのと同じような場面に実際の英語使用で遭遇すれば、そのときの記憶や知識が役に立つ可能性はありますが、そもそも Production は「この文法規則を使わせるにはどのような活動が考えられるか」という考え方で設定されるので、PPP型のシラバスをひと通り経験したとしても、学習者が遭遇する英語使用場面がある程度網羅されている保証はありません(し、シラバス作成時にそういうことを念頭にも置いていないと思います)。

ではどうする

PPPの「冷たく」て「過保護」な問題点の解決方法として僕が提案するのは、タスク型活動の部分的な導入(というか挿入)です。タスクについての解説や僕の考えの紹介は別の機会にゆずるとして、ここでいうタスク型の活動とは次のとおりです:

学習者にコミュニケーションの手段として英語を使わせる活動。ただしどのような表現を使うかは学習者自身が決め、教師は事前にモデル等を提示しない。

これだけです。なにも新しいことは言ってませんし、実際にこのような活動を取り入れている方もいるでしょう。僕の願いは、こういった活動が当たり前のものとして日常的に英語の授業で行われるようになることです。

なぜタスク型の活動がよいのか

上で説明したPPPの問題点に対するタスク型活動のメリットは次のとおりです。まず、タスク型の活動では学習者自身が使うべき表現を選択するので、このような活動を繰り返すことで教室外での実際の英語使用場面(ターゲットとなる文法規則やモデル文が提示されていない状況)において英語を使うための準備になります。タスク型の活動は、学習者がすでに持っている知識の中から適切なものを選び出す練習を行う機会を提供してくれるのです。

また、タスク型の活動を繰り返すことで、既習の文法規則をコミュニケーション活動の中で繰り返し使う機会を提供することにつながります。学習者は使うべき表現を自分で選択しなければならないため、過去に学習した文法規則についての知識を総動員することになります。

どう組み込むか

日本の英語教育は、大部分がいわゆる文法シラバスに基づいたカリキュラムで構成されており、PPP型の授業が中心を占めていると思われます。特に文法シラバスで作成された教科書の使用が求められる中学校ではPPP型の指導を行わないというのは難しいでしょう。そこで考えられるのが、PPP型とタスク中心の授業を組み合わせるハイブリッド型のコース展開(松村, 2012, p. 109)です。たとえば下図のように、教科書を用いたPPP型の文法中心の指導に一定の時間を充てたあとでしばらくはタスクに基づいたコミュニケーション中心の指導を行い、またPPP型の指導に戻り、その後タスク型の指導といったように2つの種類の指導方法を交互に実施するといった提案は十分実現可能だと思います。

交替型
(松村, 2012, p. 113)

参考文献

松村昌紀. (2012). 『タスクを活用した英語授業のデザイン』. 東京: 大修館. かなりオススメです。

LET関西支部2013年度秋季研究大会

10月12日に関西大学で開催される外国語教育メディア学会(LET)関西支部の秋季研究大会で、以下のタイトルで実践報告を行います:

大学の英語ライティング授業における TBLT の導入

発表資料:

大学の英語ライティング授業における TBLTの導入 [PDF]

大学の英語ライティング授業における TBLTの導入 [Keynote]*

*Myriad Pro フォントを利用しているため、このフォントをインストールした Mac 以外ではレイアウトが乱れる可能性が高いです。

大学の英語ライティング授業における TBLTの導入 [mov形式動画]**

**Myriad Pro フォントのない環境でマジックムーブの様子を見たい方はこちらをどうぞ。5秒おきにスライドが自動で進みます。ファイルサイズが 85MB 近くあるので注意してください。

LET関西ウェブサイトでプログラムおよび要項集が公開されています(いずれもPDF)。

関西大学でみなさんにお会いするのを楽しみにしています。

Nation の “The Four Strands” の問題点

この記事は、nancarrow さんのブログ記事「Urano氏への返答」の回答として読まれることを念頭に置いて書いています。本来なら The Four Strands そのものについてもある程度解説した方がよいのですが、時間の関係でかなりはしょります。興味のある方は、Nation 自身の文献をお読みください。また、彼の最近の講演を聞いたことのある方は、だいたいこれと同じ話をしていると思います(僕も先日直接話を聞く機会がありました)。

以下の文献は英文ですが比較的短いです。

The four strands of a language course. (1996)
http://www.victoria.ac.nz/lals/about/staff/publications/paul-nation/1996-Four-strands.pdf

The four strands. (2007)
http://www.victoria.ac.nz/lals/about/staff/publications/paul-nation/2007-Four-strands.pdf

おことわり

最初に宣言しますが、僕は The Four Strands そのものに異議を唱えるつもりはありません。偏った教え方をしてはいけませんよというメッセージは納得できるものですし、外国語を教える際のおおまかな道しるべとしては意味のあるものだと思います。ただし、Nation の提案の一部には SLA 研究の成果とは結びつかないところもあり、SLA(や関連分野)の研究に基づく提案であるとは言えないことを指摘します。

次に、この投稿では Nation の提案が「科学的か否か」という問題には踏み込みません。何をもって「科学的」とするかはなかなか難しい問題で、科学哲学的に考えてとても重要なことではありますが、今回の議論の中心からは外れます。そこでこの記事では、「科学的」ということばは使わず、Nation の提案が「これまでの研究に基づいているといえるかどうか」と読み替えて話を進めます。参考までに、科学哲学については、以下の本が読みやすいかもしれません:

戸山田和久 (2005). 『科学哲学の冒険: サイエンスの目的と方法をさぐる』

僕の中では Nation は語彙習得の権威で、今までもその方向の文献は追ってきましたが、今回の The Four Strands については僕の守備範囲からは少し外れますし、上で紹介した文献も丁寧に読んだわけではありません。僕自身の理解にも誤りがあるかもしれませんので、その場合ご指摘いただければうれしいです。

The Four Strands

Nation は外国語授業の活動を次の4つに分類しています。

(1) meaning-focused input
(2) meaning-focused output
(3) language-focused learning
(4) fluency development

(1) と (2) がいわゆる意味重視の活動で、言語形式には(あまり?)意識を傾けず、インプットの内容を聞いたり読んだりして理解する活動と、自分のいいたいことを書いたり話したりして伝える活動です。(3) は発音、語彙、文法などを意識的に学習する活動で、フラッシュカードを使った語彙学習や発音ドリルといったものが含まれます。(4) は既に知っている知識を駆使して英語を使う活動で、インプット・アウトプットの両方が含まれます。未習の言語項目が含まれていないことが重要で、速読や時間制限つきのライティング活動で、外国語を使うことに「慣れる」ことを目指します。

Nation は以上の4つを strands(糸)と表現し、下図のように4つの活動がバランスよく配合されることが重要だと述べています。

four-strands (Nation, 2013, chapter 1 より)

ここでいう「バランスよく」というのは、授業での活動時間がほぼ均等(25%ずつ)になることだと Nation は主張しています。

Each strand should have roughly the same amount of time in a well balanced course that aims to cover both receptive and productive skills…. Ideally each strand should occupy about 25% of the course time. (Nation, 2007, p. 7)

“25%” には根拠がない

僕が言いたいのは、上述の4つの活動時間を 25% ずつに配分するという考えには研究に基づく根拠がないということです。Nation 自身も、”… giving equal time to each strand is an arbitrary decision. (p. 8)” と根拠がないことを認めているのですが、それでも結局は “25%” にこだわりを見せていますし、最近出版された What should every EFL teacher know(Nation, 2013)でも “Each of these strands should get an equal amount of time in the total course” と主張しています。

この点についていくつか反論があるのですが、長くなるのでひとつに絞ります。僕は、インプットとアウトプットにかける時間が同じ(それぞれ 25% ずつ)であるべきという点にものすごい違和感を覚えます。Nation は meaning-focused output を支持する主な研究として Swain のアウトプット仮説を用いていますが、アウトプット仮説が生まれた経緯を考えれば、インプットとアウトプットを同じ量にするのがよいという考えがおかしいとすぐにわかるはずです。Swain (1985) によれば、カナダのイマージョン教育でインプット重視(アウトプットが強制されることはほぼない)の環境で第二言語を身につける学習者は、母語話者と比べて文法的正確さのみ劣ることがわかりました。意味理解、流暢さ、社会言語学的能力等については母語話者と同等の能力が身につくのに文法的正確さだけが身につかない理由として、イマージョンではアウトプットを促される機会がなかったため、細かい文法的規則に意識が向かなかったからだと Swain は考え、これがアウトプット仮説の根幹となりました。

上述のように、アウトプット仮説も実はインプットを重視しています(イマージョン教育が出発点ですから当然ですね)。インプットだけでは足りない部分を補うためにアウトプットが役立つと理解するのがちょうどよいでしょう。こう考えれば、インプットとアウトプットの活動に割く時間を同じぐらいにするという Nation の主張は、研究に基づく根拠がないだけでなく、研究に基づいてできそうな提案(インプット重視でプラスαとしてアウトプットの機会も用意する)とも矛盾しそうです。

インプット重視という考えはアウトプット仮説だけのものではありません。インタラクション仮説(Long, 1996 など)もインプットが十分あることが大前提ですし、これまでの SLA 研究全体をまとめても、第二言語習得にはインプット(の理解)が最も重要な役割を果たすと理解してよいのではないかと考えています。

SLA の研究成果に基づいた提案であるならば、The Four Strands のバランスは少なくとも (1) meaning-focused input を他の3つ、特に (2) meaning-focused output よりもずっと重くする必要があるでしょう。インプットとアウトプットの活動に割く授業時間は同程度でいいですよとする Nation の提案は、この点でこれまでの SLA 研究の結果に基づくとは言えず、「SLA 研究では、インプットとアウトプットの量は同じぐらいが適切だということがわかっているんだ」という誤った考えが広まることを心配しています。

おわりに

日本の英語教育では、インプット量が絶対的に不足していることが繰り返し指摘されています。だからこそ僕は機会があるたびにインプットの量を増やす必要性を訴え、理解可能なインプットをどうやったら教師が提供できるかについても考えてきましたし、提案もしてきました。そんな中で Nation のこの提案を知り、少なくともこの “25%” という割合が研究に基づくものだと誤解されることだけは避けたいなと思っています。

Nation の提案の大枠自体は、たとえば「文法ドリルばっかりやっていないで、意味重視のインプットやアウトプット活動も授業でやってくださいね」とか、「インプットだけでは不十分なので、アウトプット活動も織り交ぜてくださいね」といったガイドラインとしては有効だと思います。少なくとも「4つの活動を 25% ずつやるのが望ましい」という部分だけは外してくれればと願っています。

研究と実践のはざまで:英語教育研究者のジレンマ

(2012.03.15. 21:45 追記)このエントリーに出てくる HELES の講演資料はこちらをご覧ください。

久しぶりの投稿です。このエントリは半年ほど前に途中まで書いたものに、最近になって手を加えたものです。もう何年もの間悩み続けていることですし、HELESの講演でもこの件で少しだけコメントさせてもらったので、補足の意味も込めて自分の考えというか立場を表明しておこうと思い書きました。

昨年10月1日に開催された北海道英語教育学会(HELES)の年次大会で講演を依頼され、その準備をする中で僕が日頃抱えている悩み(というと大げさか)をあらためて直視せざるを得ない状況になり、考えというか願いというか、頭の中でモヤモヤしているものを整理する意味も込めて書き綴ります。

僕の身分は大学教員なので、「研究者」としての自分の立場を意識し、論文を読んだり、時には実験やデータ収集を行ったり、その結果を学会で発表したり、論文にまとめたりもします。その一方で、大学教員の給料の主な出どころは学生さんたちの授業料なわけで、「教員」としての責任も感じながら日々働いています。実際自分の労働時間の多くは、授業とその準備、それに学内の種々の業務に費やされるため、「教員」としての仕事が「研究者」としての仕事よりかなり多くなってしまうことに多少の焦りも感じていますが、それは別のはなし。

さて本題です。HELESの講演では、「現場の先生方が多く参加されるので、実践的な話をお願いします」といった依頼を受けました。言わんとすることはよくわかりますが、実に悩ましいことでもあります。僕は一教員として日々英語教育の実践に励んでいますから、授業で取り入れているアクティビティや様々な工夫についていくらでも話すことはできますが、それはあくまで一教員としての自分の経験談であり、研究者としての話とは言えません。まして僕の主戦場は大学ですから、中学校や高校の英語の先生方とは教育実践の環境も制約も異なります。

そもそも僕が講演に呼ばれたのは、英語教員としての実践が評価されてのことではないわけで、そういう意味でも「研究者」としての立場でお話しさせていただくのが筋と言えます。そうすると話の抽象度は高くなり、「実践的」というより「理論的」な内容が中心になります。むしろ僕は、現場の教員の方々にこそ学会のような場所では抽象的で理論的な話を聞いていただきたいと考えているのでそれで全然構いませんが、聞いている方々に「実践的でない=役に立たない」話と考えられてしまうととても残念なので、どのような形でメッセージを送るかについてあれこれ考えました。

英語教育研究者の中には、率先して(小)中高の現場に入り、教育方法について具体的な提案をされる方も多く、それはそれで大切なことだと思います。ただちょっと気がかりなのは、そのような提案の多くが必ずしも「研究」(何をもって研究とするかという話はちょっと置いておきます)に基づいていないという点です。「正しい」提案が多いと信じたいですが、中には誤った提案だってあるでしょう。僕が問題だと思っているのは、研究に基づかない提案がたくさん出されている現状では、何が正しくて何が正しくないのかを簡単には区別できないということです。「わたしのウン十年の経験上これは正しい」と主張することは可能ですが、その根拠は言ってみればひとりの経験談に過ぎないわけです。研究者として発言するからには、その内容は当該研究分野においてある程度コンセンサスを得られた考えに基づいているべきですし、別な言い方をすれば、研究者の発言内容にはなんらかの根拠があることを示すことができないといけないと僕は考えています。現場に根ざした具体的な提案については、主に大学で働いている研究者がするよりも、現場での経験が豊富なベテラン教員にお願いした方が自然なわけで、研究者の発言は研究に基づいているからこそ価値があると思うのです。

英語教育研究という分野は残念ながらまだまだ未成熟で、わかっていることよりもわかっていないことの方が多いのもまた事実です。だからといって、これまで何十年かの間に積み重ねられてきた数多くの研究成果を半ば無視する形で、経験と直感のみを根拠に一人一人の研究者が異なる(そして時に互いに矛盾する)主張を行うのは好ましくないと考えています。英語教育研究者としての僕たちの役割は、これまでに行われた研究からわかっていることを、現場での先生方にわかりやすい形で伝えることで、それを具体的に現場にどう反映していくかについては、当事者である現場の先生方にある程度委ねるべきだと思います。そのためにも、僕たち英語教育研究者は相反する提案をすることが少なくなるよう努力しなければならないし、そういった矛盾のあるなしをある程度チェックするのが英語教育系学会の役割でもあると考えています。

このエントリーは、何を教えるかという教育内容論よりはどうやって教えるかという方法論を念頭に置いて書きました。多少刺激的な書き方をしてしまいましたが、特定の個人を批判するといった意図は全くありません。